2011年3月31日木曜日

法然展へ

没後800年、平安時代末期に生まれ人々の救済のため念仏信仰を唱えて、鎌倉時代初期、浄土宗の開祖となった法然上人展に行ってきました。鎌倉時代末期に描かれ伝記の集大成ともいうべき国宝「法然上人絵巻48巻」が圧巻です。各寺院に伝わる国宝や重要文化財をはじめ、ゆかりの品がほぼ一堂に紹介されています。法然より50年後に没した弟子の親鸞展も開催中で私はすでに拝観。さすが師匠、今回の展示は法然の勝ち。どうでもいいことだけど私感のため悪しからず。

会場の京都国立博物館は堂々とした西洋建築です。明治30年建設。京都で生まれ日本中に広がった日本美術を広く紹介することが当館の意図とか。建設当時は物議をかもしたと思いますが現在、違和感は全くありません。邸内に、京都で一番早咲きの垂れ桜があると地元の人から聞き、探したところ西端にたった1本。目立たない場所ですが見事に満開でした。さぁ、ここから京都の春がスタート!!

                                             鎌倉仏教のトップランナー法然展のポスター
                    青空のもと、美しい京都国立博物館は春の気配が

菩提寺成道寺(愛知)へ

小春日和の日、渥美半島中ほどの三河湾が眼前の両親の墓参りをしました。本家の叔母さんが、いつもご親切に花をたむけてくれるおかげで伊藤家の墓は清潔そのもの。新幹線の豊橋駅から小一時間車を走らせると三河湾が見えてくる。海が見えると墓はもうすぐそこ。子供の頃、豊橋から渥美線に乗り田原で下車し、海を右手に見ながら砂埃の舞う田舎道をバスでゆき、江比間で過ごすのが夏休み。水着のまま川で沢ガニをとり、そのまま海まで歩き海水浴をした良き思い出の父の故郷です。

今秋、父の23回忌、母の13回忌です。二人とも存命であれば90代。戦後の苦しい時をガムシャラに生きたその人生は短かったけど、伊藤家の財産は4人の子供が無事育ったこと、と言った父の言葉が目に浮かぶ。我が家は両親存命中にここで何回法事を行ったことでしょう。早世した祖父母、若くして戦死した叔父二人。子供の頃の法事は私が一度もお目にかかったことのない人達。法事のたびに先祖の魂を、確かに存在した人々の想いを、子供心に実感したものです。

         八分咲きの桜が咲く、温暖な気候の懐かしいお寺。私で5代の歴史がここにある。

アミューズミュージアム(東京)へ

アミューズミュージアムは私が大好きな場所。浅草の浅草寺二天門東側に建つ6階建のミュージアム。私は昨年来すでに3~4回訪問。江戸時代庶民の町として輝いた浅草寺界隈はいつも大勢の観光客で溢れていますが、今回はいつもと異なる浅草でした。仲見世は照明を落とし浅草寺はライトアップもなく、これが本来の浅草寺界隈の夜なんだ、と教えてくれました。

ミュージアムはいくつもの顔を持つ。江戸時代の小物販売ではてぬぐいや熨斗袋など、鮮やかな江戸の図案が溢れており、上階には東北地方の津軽や南部地方で江戸時代から明治の中ほどまで着用した古着やボロの膨大なコレクションが展示され、日本人の逞しい底力と貧しくとも豊かな感性が満載です。圧巻はボストン美術館所蔵門外不出の鮮やかな浮世絵の展示と解説です。予想外の東海道五十三次が・・・皆様、百聞は一見にしかず、ぜひ一度足を運んでくださいませ。目から鱗の体験ができますよ。

                     120年前、普通の女の子が着用した美しい普段着・仕事着。  それはリアルクローズ
                 何代にも亘って布や綿を重ね、家族が一緒に寝た布団のルーツ

中島潔展(東京)へ

27日東日本大震災後初めて東京へ戻りましたが、その足で恵比寿駅ロッカーにキャリーバッグを放り込み、銀座松屋で開催の中島潔展に直行しました。風の画家としてあまりにも有名です。その中島氏が昨年夏、清水寺成就院の襖絵を児童画で奉納したと聞いて驚きました。海から空へ鰯の大群が泳ぎ、ポツンと一人佇む赤い着物の少女の襖絵です。ぜひ見たいと願っていましたが昨年12月、幸運にも成就院を訪問する機会を得て2回訪問しましたが、当の襖絵はありませんでした。

その襖絵が展示されるのですから何が何でも見たかった。中島氏はどうしてあんなに物憂げな表情の子供の絵が描けるのか、一枚の画の隅々まで魅かれていましたが、その人柄が今回の展覧会で判った気がします。故郷佐賀の野山で子供時代を過ごした思い出をひたすら画に描いているとのこと。子供の遠い眼差しは一体何を見ているのか何を考えているのか、もの悲しい。

                                               花の中。幼い子供が人形を背負う姿は原風景とか。
                 子供を背負い峠に立つ姉やの画。右下の子犬は画号のうめ吉

2011年3月27日日曜日

桂離宮へ

私が京都で一番好きな場所。京都住まいを始めて、なんと5回目の訪問です。今回は京都の親切な未訪問の奥様を同伴しました。なんと京都人はもったいなくも桂離宮を参観していない。手続きが面倒がその理由です。いえいえ、最近はネットでも申込みできますよ。しかしながらオンシーズンはすぐ満杯になります。次の手は明日以降の空席状況を京都御苑内の宮内庁事務所に確認し、あったら即出掛けて許可書を入手すること。

たったこれだけで世界屈指の美しい建造物の桂離宮が参観できるのです。約400年前、八条の宮が建立したが息子と二代に亘って書院を増築し庭苑を完成させました。後水尾天皇を月見に招いた際の最上のもてなしが、宮内庁職員の流暢な説明で語られます。簡素な中に計算されつくした美やオシャレ心が伺え、木材や石・家具のしつらえなど日本全国から収集。どの時期に訪問しても私は感服するばかり。皆様、参観料無料で駐車場無料。無料の丁寧な案内付きでおまけに警護付き。京都の皆様はぜひぜひ訪問くださいませ。

           冬枯れの今は古書院、中書院、新御殿がよく見通せる。建造物内部が見たいが保存のため不可
          約1時間歩くごとに風景が次々と変化する。当時は舟で回遊し庵でお茶を楽しんだ。

2011年3月26日土曜日

四国遍路(12~16番札所)へ

第3回四国巡礼の旅は京都から出発着でした。女性先達さんの案内のおかげで心穏やかな参拝になりました。第12番摩慮山焼山寺は険しい山の中、第13番大東山大日寺、第14番常楽寺、第15番薬王山国分寺、第16番観音寺の計5寺。曇空でしたが途中で雨が降りそして見事な晴空へ。めまぐるしい天候でしたが、26人の少人数で快調にお経をあげ、肌寒い徳島県の西側を一日バスで巡りました。

先達さんによると本来ならば桜の花が満開の頃ですが、まだまだ蕾のまま。「ここは早咲きなんだけど」とのこと。私は遍路しながら春の花を探しましたが意外に少なくガッカリ。四国は暖かいと予想していたのに、私が見たのは菜の花、猫柳、レンギョウ、山桜、紅白の梅・・・計3回のバス旅で徳島県の人々が豊かな自然の中、逞しく生活している姿を目の当たりにしました。次回から1泊2日でいよいよ高地県に足を伸ばします。

                           観音寺の道すがら民家の庭先に、御所の本殿に見られる右近の橘の実が満載
                    標高の高い焼山寺の道端にひっそり咲く優しい山桜
                          大日寺のバス停の側に満開の雪柳

2011年3月22日火曜日

相国寺へ

臨済宗総本山の相国寺へ。御所の北、同志社大学の真ん中に相国寺の長い参道があります。末寺に金閣寺・銀閣寺を従える格式の高いお寺で室町時代3代将軍足利義満によって禅宗の道場として建立したそうです。僧は韓国から迎えた有名な夢想国師とのこと。寺内の承天閣美術館には多数の伊藤若冲の水墨画の襖絵がありました。大芭蕉図・葡萄小禽図など修理を終えた力作がずらり。展示法がかなり本格的で、つまりお金がかかっている。

つい最近、有馬住職が脱税し1億円の追徴金をポンと支払ったことでつとに有名に。来館者は有馬和尚の写真を見て「この人、1億円・・・」と指をさす。住職には「神戸に綺麗な人がいるんやで」「金持ちの葬式代は仰山とりはるねん」などなど、京都のオバサマは余所者の私にひとしきり。暑さ寒さ対策に承天閣にいてるんやそうで、確かに新聞で拝見したつややかなお顔は精進料理を食べているお坊様とは思えない・・・この話題、当分尽きることがなさそうです。

                                       足利義満が禅を学習しただろう法堂。有馬住職もでしょうね。
                  承天閣前の梅。他はかなり散っているがここはまだ美しい。

御苑の枝垂れ桜

京都で一番早咲きの桜は京都御苑内の公園の枝垂れ桜。昨年は同時期に満開でしたが今年は0.1分咲き。ほんのチラホラでしたが、あと1週間もすれば満開になるでしょう。京都御苑の北側で旧近衛邸のすぐ側。ご近所の皆さんの散歩道です。「今年は遅いねぇ」と私も交じってひとしきり美しい枝垂れ桜談義に花を咲かせました。

昨年、私は京都御苑内の宮内庁事務所に何度も足を運びましたが、まだ肌寒い3月20日過ぎのことですが満開の枝垂れ桜を発見して大喜び。さすが京都さすが御所と感動したものです。結構太い幹で貫録十分な枝垂れ桜が何本も。案外知られていないようで、昨年3回足を運びましたが、ひとの数が少なく、見応え満点でした。

                                           どう見てもピンクでしょ。開花した花も見えるでしょ。
                         京都の春爛漫の桜はここから始まる。

2011年3月20日日曜日

曼殊院へ

富山県から友人が4歳の娘と京都へ。私の白髪は小さな子供に泣かれることがありますが彼女は大丈夫でした。すぐに私の手を取って歩いたのがとても嬉しいです。曼殊院訪問は2年半ぶり。洛北屈指の名刹です。最澄伝教大師が国家鎮魂の道場として建立したそうで、今まさにそのタイミングのせいか、庭を眺めてじっと佇む若者が多い。17世紀半ば良尚親王が入寺されたため門跡となり、曼殊院として現在の地に造営されたとのこと。

桃山時代末期から徳川時代初期、将軍家は天皇家ととても近しい関係にあり、各武将もこぞって皇族と姻せき関係をもち援助したので、こんなに優雅で格式の高い建物が完成し、約400年後の現在も人々に感銘を与えているのだと思います。この門跡には京極家が支援を。良尚親王の弟の八条の宮家(桂離宮)には前田家が。

                                  門を入ってすぐ横に梅林が。花見でなく香りを愛でるための梅とか。
                 小堀遠州作の庭苑。白砂は屋敷内に灯りを取り入れるために。

詩仙堂へ

左京区の東山の山裾に詩仙堂がある。ここは徳川家の家臣石山丈山の隠居所だそうですが随分立派な建造物と庭苑だこと。宮本武蔵が吉岡一門と争った一乗下り松の遺跡のすぐ傍にあります。中国の著名な詩家の肖像をその漢詩とともに掲げた詩仙の間があり、その名で呼ばれるようになったそうです。日本の三十六歌仙にちなんで36人を選出。その趣向が400年後の私達にまで訴えかけてくる当時の感性や技術に、ただただ敬服するばかり。

日本はつくづく不思議な国だと思います。京都へ来て初めて気付いたが、奈良時代から江戸時代末期まで1700年間、中国を師として武家や公家の教養はもっぱら中国の四書五経をはじめ兵法書や思想書の高価な写本を購入し、子供の頃からひたすら学習しています。平安時代、日本で創作されたひらがなは話し言葉に近いが、女文字として教養ある男子のものとはなりませんでした。結果、読物は中国の古典をひたすら学習。漢字とひらがな混合の現代語が完成したのは明治のこと。真の独立国家になったのは、まだ150年前ということ。

                                          小堀遠州作といわれる庭苑。東山の借景と相まって見事
                   玄関横から庭苑に通ずる脇道。苔の石垣が何とも言えない

花灯路へ

京都の東山沿いの各寺で春秋の2回観光シーズンのちょい前に開催されるのが花灯路。東日本大震災で中止と聞いたが、各流派の活花が。土日のみ開催とのこと。見れば、灯路も点々と準備されている。青蓮院・知恩院・円山公園・高台寺・清水寺まで、夕闇迫る頃から幽玄の美が静かな邸内に表現され、この世のものとは思えない風景が広がる。

円山公園内の坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像を見に。いつ来ても人々が二人を見上げ、二人は見下ろしている。その手前、あの有名な枝垂れ桜の東側に優雅な大きな活花が二器。ライトアップされたらさぞ綺麗だろう。京都へ来て感心したことですが、室内のアチコチに季節の花が活けてある。私も若い頃池坊を学んだが、型どおりに活ける指導にすぐ飽き、自己流で活けたら師匠から「面白いから自由にやって」と言われたのは中学生の頃。

                                          桜の蕾は確かに大きくなったが、その前にこの活花を見て。
                           極楽鳥が庭苑に降り、舞をまう。

2011年3月17日木曜日

大徳寺へ

創建は、鎌倉時代末期。室町時代の応仁の乱で荒廃したが一休和尚が復興したそうです。正門を進むと講堂・法堂があり、その他14の塔頭が。桃山時代、大徳寺は秀吉が、不遇の死を遂げた織田信長の葬儀を営んだ場所。信長の菩提を弔う、総見院という塔頭を建立。併せて、名だたる戦国武将達が塔頭を建立した。雨かなーと思ったら木立を舞う雪が横なぐり。まさに往時の騒乱を思わせる空模様でした。

総見院は、手際のよい澄んだ声の学生ガイドさんの説明が清々しい。等身大の信長座像は黒の衣冠束帯が凛々しい。本能寺の変がなく天下統一した暁に、この方はどんな国造りをしたことか。球林院は表千家のお茶会を催行しておりました。一般人として飛び入り参加し抹茶を二服頂戴。その後、遅めの昼食のために入った中華料理屋さんがびっくりするほどご親切。出前の注文電話を「今多忙だから」と断り、もうひと組の客も一緒に連れ、大徳寺界隈を解説しながらひと回り。朝5時から掃き掃除俸仕をしているとか。ほんとにまぁ、お世話になり、ありがとうございました。

                 織田信長の菩提寺、総見院。秀吉が葬儀のために建てた塔頭。
                  飛び入り茶会に参加した球林院。山中鹿之助が建てた塔頭。
                  石畳があまりに美しい東桐院は細川忠興が建立した塔頭。
             三門2階部分に千利休居士の像を安置したため、秀吉の怒りを買うことに。

今宮神社へ

紫野今宮に鎮座する今宮神社。赤い鳥居は改装されたばかりか勇壮そのもの。平安京に蔓延した疫病が広まることを防ぐため、一条天皇が祈願際を行った神社とのこと。この本殿も寝殿作りで桧皮ぶきの堂々たる構え。神様、原発を・・・地震を・・・人々を・・・よろしくお願いいたします。避難所で体調を崩し、病む人がありませんように。

タクシー運転手が、あぶり餅が有名だよ、とのこと。東門の外に2軒茶屋が。見れば、一文字屋は第25代とのこと。生憎、2店とも閉店。あぶり餅にあぶれて、お腹が空いた。地震の最中で雪交じりの寒い3月では参拝者も極めて少なく、閉店もヤムナシ。日本で一番古い和菓子屋さんに再度行ってみたい。

                                            東日本大地震で疫病が広がりませんように。
                   右が一文字屋。25代目の当主があぶる餅でどんな味?

2011年3月16日水曜日

北野天満宮へ

友人と二人、学問の神様、菅原道真を祀る北野天満宮にお参りしました。受験シーズン真っ最中のためか、男子中学生が4人一斉に祈願していましたが、その姿が可愛くて思わず「ガンバレ!」と声をかけました。寝殿造りの本殿はその佇まいが、いかにも荘厳で1000年以上、多くの人々の願いを叶えた由緒ある神社。紅梅もわけありそうで抜群に美しい。苔むした太い幹や枝が、確かに私達に何かを語り頷いているようです。

北野天満宮は平安時代中期、菅原道真公が図らずも大宰府に流され無念にも帰参が叶わず、その後に起こった京の都の天変地異を鎮めるため、国を護る神として道真公を祀った神社。菅原道真様、お願いです。どうぞ原発の放射能汚染が起きませんように、ひとりでも多くの命が助かりますように、地震が終息しますように。そして、多くの受験生が合格しますように。

                                    道真公、地震や原発の終息を、若者の夢を叶えてください。
                        本殿前、右近の満開の紅梅も神々しい。

2011年3月14日月曜日

東日本大震災

戦争以来の国難。。。。。
関東の親族は全員無事。。。。。。
コクーンタワーは大丈夫。。。。。。。
学生の実家がまさに被災地。。。。。。。。
今も続く余震。。。。。。。。
原発が3基危険。。。。。。。。。
食料・水・毛布・ガソリンが不足。。。。。。。。。。
ひとりでも多くの人が助かりますように。。。。。。。。。。。

頑張ろう、ガンバレ、日本!!

2011年3月10日木曜日

佛教大学社会人セミナーへ

添付は彼岸桜。ひそやかで気品があり、花はやや小ぶりで色も浅いピンクです。民家や神社仏閣にて、彼岸桜(寒桜?)が咲いているのを見たことがありません。ここ佛教大学社会人セミナーは四条烏丸にありますが、エントランスの正面に必ず、季節の花が活けてあり、来場者の心を和ませてくれます。ここで歴史や京都の勉強をするのが私のライフワーク。

日文研の笠谷教授の講義はいつも超満員。今回のテーマは江戸時代の幕府と天皇家その②。徳川将軍家は、天皇家を庇護せず清貧を極め、蚊帳をまとっていたという説はウソ。家康は内裏を大改装し、家康・秀忠・家光まは天皇家に徳川の血縁を求めたが江の子供(男・女が次々と死亡)し外戚になれず、綱吉は内裏の改修工事を寄進し、吉宗は平安時代の伝統行事を衣服を含め復活したが、18世紀は官位を受けるだけの寂しい関係になり、19世紀、いきなり尊王攘夷論が巻き起こり、図らずも天皇家が表舞台に・・・話はつきない。

                                                     かれんな彼岸桜。ひと足先に春を告げる。

2011年3月8日火曜日

東京へ

4~8日、東京へ戻りました。旧知の方と夕食をしたら、食後のお茶をなんとYH先生とご一緒することに。喫茶店でなく先生のご自宅にて、美味しいお茶や果物を上げ膳据え膳でいただきました。挙句の果てに絨毯の上に足を投げ出し後ろ手でTV鑑賞。斉藤祐樹は良い子だね!先生は正座なのに私達はこんな姿でいいのかしら?いいんだよ、と。いつも笑顔で優しかった旦那様は仏壇の上の写真の中で極上の笑顔でした。旧友に感謝!!

東京滞在中は寒暖の差が激しく大いに戸惑いましたが友人知人と食事して楽しかった!です。20年来の知人、同マンションの人、京都で出会った若い人・・・5月末、京都宅を解消、東京へ戻りますが皆様、今度ともによろしく!しかし東京宅は床暖房のせいで室温がすぐ上がり大変過ごしやすいが、京都宅は床からじわじわ冷えが迫ってくる。春はまだまだ、二月堂のお水取りが終わるまで寒い日があるから油断するな、暑さ寒さも彼岸まで、三寒四温ですよね~

               5日はポカポカ陽気。東京宅のベランダ(11階)から西西北の方向を。


2011年3月5日土曜日

法華寺(奈良)へ

法華寺は平城宮の西に位置する。東大寺が聖武天皇御願の全国の国分寺の総本山であるのに対し、法華寺は光明皇后御願による国分尼寺の総本山で女人道場「法華寺御所」。現在も奈良の人々から天皇家とゆかりの高貴なお寺と尊敬されています。皇后の父藤原不比等の邸宅を大伽藍として創建。現在はその規模を想像することはできないほど物静か。

非公開ご本尊の十一面観音のお顔は光明皇后によく似ているそうです。昨年4月5日、私はひとり法華寺を訪ねましたが、光明皇后1250年大遠忌の真っ最中。一般人として参列。ここで薬師寺関連の東京の友人にバッタリ逢い弁当と呈茶券を頂戴。ひとりで食べていたら宮津の牛田さんが横に座わり、ご縁が始まりました。ご家族とも親しくさせていただき、不思議なご縁を痛感しています。

                    本堂。法華寺訪問は3回目。本堂に入るのは初めて。
                         ピンクでなく赤に近い紅梅。老木に気品が。

2011年3月4日金曜日

二月堂のお水取りへ

奈良東大寺二月堂のお水取りに参列するのは2回目です。ここ二月堂の修二会は天平時代から今年で1260年間、一度も途絶えたことのない東大寺の学僧の厳しい修行の日。今回は美しい舞台のようなステージ直下で灰(火の粉)が全身にハラハラ墜ちる至近距離でした。黄昏時で空が濃紺に染まる頃、10本の松明が火の粉を振り撒きクルクルと・・・

約1時間前、二月堂内から高らかに板床を歩く下駄の音がカタカタと。お灯明のかすかな灯りの中、暗い堂内に大きな音が鳴り響いておりました。たった一人で歩き廻って修業されている様子。堂を取り囲むように、球状の松明の火の粉が散る様は実にダイナミックで荘厳そのもの。居合わせた人々を独特な安心感で包み、10分間とは思えない1260年分の東大寺の僧侶達の想いが、確かに込められておりました。

                        気温2度。寒さ冷たさ痛さに震えながら携帯カメラから二月堂を覗くと濃紺の空が。
               この松明は舞台の左端。ひと息ふた息ついてから右端へクルクルと。

2011年3月2日水曜日

梅宮大社(梅ノ宮神社)へ

嵐山の桂川手前の梅宮大社(梅ノ宮神社)へ梅の花見に。四条河原町からバスでひたすら西へ一本道を約20分。元々は平安京の東側の賀茂川近くにあり下賀茂神社に属した神社で、賀茂川の氾濫に備えていたが、いつの日か平安京の西の地に移ってきたそうです。現在は桂川の平穏を祈願しているのでしょうか。

その名の通り梅の花は今を盛り、と書きたいところですが境内に5~6本、外側にも5~6本。小さな神社だからやむなしかも。カメラ小僧は一切見当たらず、カメラおじさん・おばさん・娘さんが梅の花に急接近して撮影中。頑として動く気配がありません。従って私は青空を背景にパチリパチリと撮影。花見しながら抹茶を一服。これは美味ですね!!

                                            神社お隣の庭に咲く蝋梅。私はこの色(黄)になぜか心が。
門の外の紅白の梅。この梅はまさに真っ赤。ピンクではない。