2011年10月26日水曜日

鞍馬の火祭(京都)へ

22日から1泊して、時代祭と鞍馬の火祭を見るために、多数の友人知人(計14人)と京都へ行きました。当日の天気予報は雨模様でしたが鞍馬の火祭は決行されました。毎年10月22日に実施される鞍馬の火祭ですが雨天の催行は20年ぶりとのこと。途中で土砂降りの雨に見舞われ、濡れ鼠になりましたが、鞍馬寺境内の料理屋さんの特別席に招かれて、至近距離から約4時間余、じっくりゆっくり鞍馬の火祭を楽しみました。

大小の松明が鞍馬寺の由岐神社へ向かう行列の通る道は狭く、観光客は立ち止まってはいけないそうです。私が京都在住中に知り合った鞍馬寺にご縁の深い友人のおかげで、特別席で京料理を食しながら鑑賞しました。この火祭は約1100年の歴史があり、雅な祭が多い京都で唯一の勇壮な祭で、燃え上がる火花と鞍馬の人々の心意気に大感激でした!

              今年4回目の鞍馬寺訪問。本殿を初めて写真に撮ることができました
                松明を奉納する勇敢な男性達。背中に火傷ができるのも暫しのこと
               祭が佳境に入った9時過ぎに山門前から私達の目の前に運ばれた

2011年10月25日火曜日

花井幸子先生コレクションショー

花井幸子2012春夏コレクションを友人達と一緒に見ました。今回のショーは着物・洋服の2部構成で、実に華やかでした。会場は超満員。先生のコレクションを初めて拝見したのは、約40年前のことでした。以来毎年、ほとんど欠かさず観覧させていただいております。花井先生のコレクションは上質な大人の女性のための装いを、見事に表現されています。

初めてコレクションショーを拝見した時、私は20代の後半でしたが40歳になったら花井先生の着物や洋服が着こなせる女性になりたい、と大きな目標を立てました。60代後半の今になって考えると、
無理!!大人の女に成れなかったな!!と反省。私はいつも花井先生のコレクションを見終えると、上等なコンサートや映画を観たような幸せな感動を覚えます。

                            1部の着物コレクションショー。日本には美しい伝統的な衣装がありますね
               2部の洋服のコレクションショーのフィナーレ。先頭は花井先生ですよ

伊良子岬~浜名湖(愛知・静岡)へ

15日、父の23回忌・母の13回忌のため、愛知県伊良子岬の中ほどの江比間の成道寺へ、伊藤家の家族が大集合しました。生憎の雨模様でしたが、山梨県や東京から兄弟甥姪とその連れ合いと子供の計21人。伊藤家は元々親戚が少ないのですが、現在は見事に大家族に増えました。その後、豊川市の実家(兄宅)へ皆で行き、仏壇にお参りしました。

お盆の行事や法事は亡くなった人を偲んで家族が集まるものですが、亡父は青年になるまで波乱に富んだ半生でしたが、家族を持ち戦後の混乱期を清く正しく生きる道を身を持って教え、時に正道を順々と説くような冷静で賢明な人柄でした。亡母は昭和の女性の典型で、こよなくわが子を愛し、いつまでも子供達の行く末を案じてくれる母でした。

                                妹や甥姪の家族と1泊した浜名湖レイクホテルから、穏やかな湖面が

2011年10月7日金曜日

尾瀬ヶ原(群馬)へ

東京から片道4時間バスに揺られて、尾瀬ヶ原の草モミジを見てきました。尾瀬は初夏から夏まで、水芭蕉やニッコウキスゲの群生地であまりにも有名です。鳩待峠(標高1591m)でバスを降り、ひたすら坂道(階段状)を3.3㎞歩いて約1時間で山ノ鼻に到着。その先は一面の尾瀬ヶ原(標高1400m)。尾瀬は自然公園法の特別保護地区に指定され、枯葉1枚も拾うことが禁じられ大切に保管されています。

山々の紅葉はまだ始まったばかりでしたが、広大な尾瀬ヶ原では見事な草モミジが見られました。もう1週間後であれば、草がもっと赤くなり鮮やかに変貌するとか。平日だったため、適度な人数で尾瀬ヶ原のアチコチを散策しました。合計4時間のトレッキングでした。生憎、霧雨が降ったり太陽の陽が射したりの天候でしたが、よし、来年は初夏に訪問しよう!と決意した次第です。

                               見頃は 6月の水芭蕉、7月下旬のニッコウキスゲ、10月上旬の草モミジ
            真っ赤や黄色の紅葉が所々に。あと1~2週間で山々は見事な錦秋に

2011年10月3日月曜日

東京スカイツリーの真下へ

世界一の高さの東京スカイツリーは墨田区。ほぼ真下の北十間川の川の中の絶好ポイントで舟を止めてスカイツリーを見上げると今まさに最終段階の工事中。見ればクレーンがへばり付き、もう少しで取り外されるため今が見納めとか。高さ634mのスカイツリーの500mまでは建造物、残り134mは工作物とは解説者の建築家の弁でした。

京都の東寺の東塔は1200年前に創建されたが度々の焼失後、徳川家光が再建したが400年余の現代まで、京都の象徴として美しい姿を保っています。その要因は心柱とのこと。江戸時代の匠の仕事がスカイツリーに採用されたそうです。地震や強風時の揺れを計算し吸収する仕組みだそうです。浅草は元より銀座や上野を訪問した際にスカイツリーがアチコチから見られて町歩きが楽しみです。

                                       急に秋風が吹き始めた東京の空の下、スカイツリーは天高くそびえ立つ
             いくつもの橋をくぐったが隅田川の前方に東京スカイツリーが

日本橋クルーズへ

中央区の日本橋の双十郎河岸から日本橋クルーズに乗船し東京の町を川から散策しました。建築家さんが解説してくださるため、江戸時代に物資を運ぶ水路が果たした役割や歴史に関わる建造物をジックリ社会勉強できました。河岸とは物資を上げ下げする場所とのこと。水位を調整する水門がアチコチにあり、見事なその仕組みを目の実体験して大感激!

日本橋川から東へ移動し墨田川に出ると右側に美しいアーチの永代橋が見え、北上し右へ曲がって小名木川を東へ行き横十間川を再び北上し北十間川から隅田川を南へ下って日本橋川に戻る1時間30分の旅。小名木川では水位の異なる運河で水門を活用して水面を昇降させる「舟のエレベーター」を初体験しました。

          
   隅田川にかかる永代橋。この橋は時代小説によく登場する。川の上から見られて胸がキュンとする
中央区北側の墨田区の両岸は歩道や緑の植物が豊かで美しい風景が広がる
           水位を調整する水門。ギロチン式の扉が降りると瞬く間に水位が上下する

日本橋へ

中央区の石造りの日本橋は創建100年。江戸時代、日本橋は東海道五十三次の京都までの出発地点です。安藤広重の浮世絵であまりにも有名。江戸時代、日本橋の南側周辺は町人の町が立ち並び大勢の賑わいがあったようです。皇居の北側から隅田川へ流れる日本橋川は水路として大きな役割を担っていたようです。

東京オリンピックが開催された1962年、首都高速が急ピッチで東京の町の上に建設された際、無残にも日本橋の真上を首都高が通ってしまったため、最近まで煤けた印象の目立たない橋でした。100年記念で橋を強烈な水圧で洗ったら創建時のような美しい橋に変わり、再び脚光が。日本橋川から舟に乗り、東京の町を船上見学するツアーに参加しました。

                          安藤広重の日本橋の浮世絵は美しいアーチを描いていますが、現代版は平らです
            首都高速の橋げたが無機質でうっとうしい。美しいアーチを描いた100年の重み

2011年10月1日土曜日

浄光明寺(神奈川)へ

鎌倉の浄光明寺は格式の高いお寺です。京都の天皇家ゆかりの泉湧寺とご縁が深く、鎌倉幕府8代執権の北条長時が建立したそうです。この寺のお話が好きな住職さんは鎌倉にある約300寺院の代表を務めており、本尊の阿弥陀三尊像は国宝で宋の影響を受けた美しい仏様です。

亀ヶ谷切り通し近くで、周辺は鎌倉時代に武家屋敷だった場所。鎌倉の路地裏歩くと、史蹟として名高い場所がそこかしこにあることに気がつきました。鎌倉案内人が側にいたらどんなに楽しいことか・・・次回はボランティアガイドさんを依頼して、花々の美しい時期に再訪しようと思います。

                                    五本の白線の壁は天皇家から住職を迎えた格式の高い寺院の証
           桜の花のように見えるがこれは枯葉。海からの潮風を受けて見るも無残な姿に

英勝寺(神奈川)へ

東光山英勝寺は現在鎌倉では唯一の尼寺です。江戸時代の東慶寺は尼寺であり駆け込み寺として有名だったが、昭和に入って男性住職に変わりました。寺域は扇ヶ谷にあり、徳川家康の側室の英勝院尼の創建です。太田道灌から4代の娘で代々徳川家に仕えてきたそうです。仏殿には3代将軍家光の寄進による運慶作の阿弥陀三尊像を安置しています。

尼寺のせいか、別名花の寺として鎌倉の人々に知られているとか。萩は台風15号でほとんどが凋んでいましたが、赤い曼珠沙華がアチコチ咲いていました。十二支を刻む仏殿は日光東照宮の装飾を垣間見るような勇壮華美な装飾が残され、かっての家康の威光が偲ばれます。やはり関東大震災で庫裏、蔵などは倒壊したが、往時の面影を半ば損ねているが文化財としての価値は高いそうです。
               赤い花は庭のアチコチに咲く曼珠沙華。京都の手が込んだ庭とは異なり素朴で親しみやすい
二階に鐘楼のある総門。火事や地震の災いを逃れ現存する貴重な建物

浄智寺(神奈川)へ

驚いた事に鎌倉には現在約300の寺があるとのこと。裏道を通って未訪問の寺を参拝しました。13世紀北条氏の勢力が極めて盛大な時期に創建。執権として有名な北条時頼の3男宗政の未亡人が夫の菩提を弔う寺として建立したそうです。開山には中国や日本の高僧が招かれ創建当時は大伽藍が創建されたそう。現存する祠堂は、日光東照宮のような華麗な装飾の建物です。

戦国時代から江戸時代に入ると各寺院は衰微し鎌倉は農漁村になってさびれ、寺院もかっての繁栄ぶりを失って行ったとのこと。この寺も大正12年の関東大震災でほとんど倒壊し、現在は三門、鐘楼付きの楼門、新しい仏殿の雲華殿、方丈、客殿があるのみ。鎌倉の庭園は自然の草花を植える方式で親しみやすいが、これは禅宗の思想なのでしょう。

          木漏れ日の美しい山門。源氏山の麓のこの辺りは鹿ケ谷と称し多くの寺院が現存
萱ぶき屋根の家は、方丈か客殿のようですが、創建時のものではなさそう
            

鶴岡八幡宮(神奈川)へ

鎌倉に八幡宮を祀ったのは八幡大社が清和源氏の氏神であり源頼義、義家、頼朝が鎌倉を本拠地としたから。源平合戦の結果、平家が京都にて権勢を振るったが、1180年頼朝が旗揚げし平家を滅ぼした後、鎌倉に幕府をへ開設したが、八幡宮の社頭の整備に当たり、妻政子の安産を祈願し由比ヶ浜まで長い参道を造りました。

3代将軍実朝が八幡宮参代のおり、階段横の大銀杏に隠れた賊に襲われ、若くして命を落としたが、樹齢700年の大銀杏は1010年3月強風によって根元から倒れたというニュースが流れました。1年6ヶ月後の昨日、大銀杏の根元から約20本の若木が2~3mまで伸びていました。約5mに切られた太い倒木は左横に移植されたが、多くの若木がアチコチから元気に生え、銀杏の葉が倒木から直接生えていたのには感動しました。 

       鎌倉は歴史遺産に登録を目指しているそうだが、平日でも多くの若い参拝者が多数いた

        階段横の丸い場所が銀杏。倒れた銀杏の根元から約20本の若木がまっすぐに伸びて

円覚寺(神奈川)へ

鎌倉は目黒の我が家から50分の至近距離。湘南新j宿ラインが開通してから、とても便利になりました。鎌倉へは2年に1回のペースで訪問しています。横浜界隈の開拓の変化は目覚ましい進化があり、沿道には新興住宅地が延々と並んでいますが、北鎌倉駅に下り立つと深い森に囲まれた静寂な空気に一変します。

約700年前、時の執権北条時宗は2度に渡る蒙古襲来を受けたが、国をあげてこの難敵に当たり、蒙古軍を撃退した時宗は多くの戦死者の菩提を弔い、自己の精神的支柱となった禅道を広めるため臨済宗(禅宗)円覚寺を建立しました。今も現存する塔頭には多数の禅僧が修行の場とし、多くの人々から、心の寺禅の寺として親しまれています。

     横須賀線 北鎌倉駅の側。数度の火事で衰微したが江戸末期から明治に復興し現在の基礎を固めた
         山門から続く総門。山内には18の塔頭を持ち、座禅会は古い歴史を誇り関東禅宗の