2011年9月25日日曜日

長瀞七草寺(埼玉)へ

新聞社主催の秋の秩父長瀞七草寺めぐりハイキング(約7000歩)に参加。長瀞は渓流下りで有名な場所。台風15号のせいで濁流が勢いよく流れていましたがライフジャケット姿でボートを楽しむ人が多数おりました。秋の七草は、田舎育ちの私には田んぼや畑の畔道や庭先でよく目にした花達ばかり。どれもが素朴で可憐で人目を避けるような小さな花ばかり。

平安時代、万葉集で山上億良が秋の七草を「萩の花尾花葛花なでしこ女郎花また藤袴朝がおの花」と詠んだものが始まりとか。何気なしに花の名前を並べただけの歌ですが、秋の自然の花と人間とのささやかな関わりが伺えます。女郎花はオミナエシと読み、尾花はススキ、朝がおはアサガオではなくキキョウであろうとのこと。

                                洞昌院の萩の花。たくさんの萩の花畑がありましたが多くは散る寸前でした
      道光寺の尾花。最近のススキの主流は大きなパンパスですが、日本古来のススキも多種花盛り
            遍照寺の葛の花。大きな葉の陰に小さく咲く葛の花はほとんどが枯れていた
           不動寺の撫子。なでしこジャパンで一躍有名になった撫子より素朴な種類の花
         真性寺の女郎花。この字でオミナエシと読むのは・・・白い男郎花(オトコエシ)もありました
            法善寺の藤袴。幻の花と言われ紫味の花と白味の花があり境内に芳香が漂う
          多宝寺の桔梗。畑のキキョウの多くは枯れかけていましたが、境内の桔梗が美しい

コスモス群生地(埼玉)へ

巾着田の彼岸花群生地の隣に、広大なコスモス群生地があります。行く道端のコスモスがとても綺麗に咲いていたので群生地が楽しみでしたが、ここは台風15号の影響をモロに受けたようで、倒れたり、花びらや葉がしおれたり擦り切れたり、見るも無残なコスモス達でした。可憐な秋桜がボロボロな姿で迎えてくれました。育てた巾着田の人々にお疲れ様と言いたい。

美しい満開の花に出会うのは天候に左右されるので実に難しい。吉野の千本桜を見るために、吉野市観光課へ何度も電話し「東京から見に行きますが満開はいつですか?」と確認しましたが、角館の垂れ桜や長谷寺の牡丹などなど、この方法を何度使ったことか。今回の埼玉行きは新聞社主催のバス旅行のため、勝手な日程変更ができないのはやむを得ません。

                                   痛々しいコスモス群生地。よく見れば今朝咲いただろうコスモスがちらほら
                倒れたコスモス群生地・・・・それでも大勢の人達がカメラ構えて

曼珠沙華群生地(埼玉)へ

埼玉県日高市に巾着田という地名があり、ここに彼岸に咲く曼珠沙華の群生地があります。別名彼岸花という仏様の花。彼岸の時期になると田畑のアチコチにすくっと立ち、真っ赤で妖艶な華が咲きます。私は子供の時からこの真っ赤な華と怪しい大人の魅力を持ったような名前が大好きで、時々学校の帰りに自宅に持ち帰って母に叱られた記憶があります。

日高市の高麗川の清流が長い年月をかけて蛇行し、巾着のような地形になり、そこが日本一の曼珠沙華の群生地になったそうです。初めてその群生地の仰天写真を見たのは数年前。絶対に見に行きたいと決めていたがその願いが叶いました。今年の彼岸花は猛暑のせいでやや遅咲きだが、見事に彼岸の本日満開になったとは、帰宅後のNHKのニュースでした。白いアスパラの芽のような小さな茎がたくさんあるので、4~5日後の訪問がベストでしょう。

                      日光に照らされた部分が白く光って残念!白い曼珠沙華もあるのを皆様はご存知?
               最盛期はこの一帯が真っ赤な絨毯を敷いたような様相になるらしい

2011年9月19日月曜日

東京ミッドタウンへ

ここはあまりに巨大な複合施設空間。高い棟にはリッツカールトンがあり、20数階のフロントでお茶を飲むのも気恥ずかしい。私はいつも1階辺りと4階までのショップを眺めて何も買物せず、帰宅するのが毎回のパターンです。ここは大き過ぎて何をどう見たらいいのか私にはしっくりきません。今回は地下1階を初めて歩いてみましたが、思った通り、大きなスーパーマーケットやお惣菜屋がずらり。

新しいショップに出くわすと次から次へと手が出て、もう2日分の食料は十分。ふと見渡したら、奥へ奥へ右へと商品がずら~り。私は一巡どころか、ホンの入口付近で食事を調達した次第です。しかしまぁ、いくら六本木とはいえ、こんなに大きなスーパーマーケットが必要なんだろうか?売上は大丈夫か?日本の食料品事情は「素晴らしい」のひと言ですね。

                     ここは元防衛庁の跡地。こんなに大きな建物が建つなんて。樹木の緑も大きくなったね
                   あまりに大きな建物のため、どこを撮影したらよいのやら

2121デザインサイトへ

この美術館は私の大好きな小さな美術館。六本木ミッドタウンの裏手にひっそりと建っています。多分、安藤忠雄さん建築の建物だと思いますが、六本木ミッドタウンのオーナーの森氏が文化事業の一環としてファッションデザイナーの三宅一生さんをプロデューサーとしてオープンした発信型美術館。ややこじんまりしているが、外観デザインも展示スペースもシンプルで素晴らしい。いつも感心するのが質の高い展示作品と斬新な展示の方法。

今回は三宅一生さんが1990年代に発表した作品を制作する過程をアニメで詳細に表現し、パリコレで発表の後、彼のスタッフがNYに作品を運び、カメラマンに見せると、彼は服の中からチョイスして撮影用のデッサンを描き、コレクションショーとは異なる表情で新作ファッションをアート写真として完成する。NYのカメラマンはパリコレを一度も見たことがないし、三宅氏も撮影に一切立ち会わない関係が約20年続いたとのこと。お互いの言葉は「彼は素晴らしいね!」とのこと。

                              2121デザインサイトの展示作品がポスターに一生さんの作品がひと際目を引く
六本木ミッドタウンの左後ろ方向に2121デザインサイトの建物が。皆さんもぜひご覧を

我が家の観葉植物

我が家には、ベランダの外とアルミサッシのドアの内側に計20個の鉢があります。ご長寿は室内のベンジャミンで約40年間、私と共に暮らしています。今も濃緑の葉が地震のたびにゆらゆら揺れて私に震度1か2か警告を発してくれます。25年間一緒ののポトスもやけに元気で、我物顔に室内を這い回っています。実はもっぱらご主人様の私が無精なため、実は水や肥料をあまりあげない。まぁ3日に1回ってところかしら。

さすがにベランダ外の緑はそうはいかない。今夏の猛暑は観葉植物達は一声に「早く水を!と葉の表情で訴えてくる。時に忘れると、葉がいかにも生がなく、くたっと萎れる。そうなったら私はひたすら、「ごめんね。今からお水を一杯注ぐからね。許して」と萎れた葉っぱをなでながら声をかけると約1時間で元気な葉に戻ります。植物は愛情で育つのですね。

                                   室内はまるでジャングル状態。左端が40年のつきあいのベンジャミン
              幅90㎝ほどの狭いベランダも緑が一杯。手前はギボウシ、ゼラニューム、他

2011年9月18日日曜日

恵比寿ガーデンプレイスへ

恵比寿ガーデンプレイスまで自宅から徒歩15分。江戸時代に造られた茶屋坂を昇って、JRの上にかかるお洒落な名前のアメリカ橋を渡ると美しいレンガ造りのガーデンプレイスが。ここは恵比寿麦酒の工場跡地を整備して造った異次元の空間です。マンションは億ションとして販売され、デパート・ホテル・社屋・レストラン・イベント広場・ホール・ミニシアターなどを完備。洗練された美しい空間の都会の一画に変貌しました。
 
隣接する東京都写真美術館へ行ったら、なんと休館日。ここは3階に渡っていつも素敵な写真展が展示されており、毎回写真の持つ神秘的な発信力に心が踊る体験をしています。イベント広場では東日本大震災のため多くの若者が、灯の祈りの蝋燭をカラフルな紙に包んで並べていました。私は献金しかできないのに、若者たちは偉いね!

          イベント広場のアーチ型屋根いつも催し物に気をとられ、美しいアーチ天井に初めて気がついた
                 正面はジョエル・ロブシェンのレストラン。高層ビルは億ション群

2011年9月9日金曜日

東御苑平川門へ

行きは北桔橋門から入場したが、帰りは平川門からお堀を渡りました。この平川門は江戸城の最も北側に位置しており大奥に近く、大奥務めの女中達の通用門だったそうです。江戸城は15世紀半ば、太田道灌が築城したのが始まりで当時から平川門があったそうです。江戸時代の別名はなんと不浄門。

つまり罪人や病人がこの門から外へ運ばれたとか。松の大廊下で刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭は座敷牢に閉じ込められ、即日中にこの平川門から出され芝愛宕下の田村邸にて切腹。平川門から出た橋の中央には創建当時の面影を残す銅製のギボシがあり、思わず振り返りたくなる装いの良い門と橋でした。

                     大奥は1000人の女性が働いていたとか。 この平川門をどんな想いでくぐったことか
               木製の平川橋。最寄り駅はメトロの竹橋駅。皆様もぜひ一度訪問を

皇居東御苑へ

皇居の東御苑の入口は大手門・北桔橋門・平川門の3カ所。3・11の地震で大手門の白壁が少し崩れたようで今もそのまま。御苑内は訪問者も少なく広大な敷地をゆったり散策できます。意外に多いのは外国の方。観光ガイドに掲載されているのでしょう。御苑内には江戸時代の建物、同心番所・百人番所・大番所・諏訪の茶屋などが再現されています。

面積約21万坪の東御苑には日本庭園の他にバラ園・竹林・ツバキ園・茶畑・勝負田・都道府県の木・二の丸雑木林などで多数の植物が植えられ、四季折々の表情を楽しむことができます。特に2ヶ所の雑木林は昭和天皇の発案で、都市近郊で失われていく植物を植えた雑木林を復元したそうです。「雑草という草はない」とは昭和天皇の言葉。

                              東御苑内南端の富士見櫓。当時は19の櫓があったが現在は3つのみ
      百人番所。平成天皇即位20周年記念イベント時は即位式で着用衣服が多数展示されていた

江戸城天主閣跡へ

北桔橋門を入って約5分の近い場所に江戸城本丸があります。築城から3度建て替えられたが1657年の名暦の大火(振袖火事)で焼失した後は、天主閣の石垣が築き直されただけで、再建されなかったそうです。石垣の上に昇ってみましたが、ここに天守閣が建っていたら・・・と誰もが思いを馳せる場所です。

私の友人の建築家は「江戸城を再建する会」を支援しています。東京のシンボルとして再建を!とのこと。私も大賛成です。石垣の上に江戸城の見取り図が掲示されていましたが、本丸御殿の南側に大奥が、その向うに中奥があり、その先は表とのこと。部屋数は尋常ではないほど多くて数えるのが面倒です。右端のお堀近くに松の廊下があった建物が。

        本丸御殿には大広間があり、ここから将軍のいる白書院まで50mの長い松の大廊下が
            美人講談師の神田蘭さん。手振り身振りで大声で。芝生の場所には大奥が

江戸城北桔橋門へ

皆様、皇居の中に入ることができることをご存知ですか。私の訪問は今回で2回目。1回目は平成天皇在位20周年記念イベントの時のこと。式典に使用した馬車・幟・衣装などが展示されていました。今回は講談師の神田蘭さん案内の日帰り旅に参加して再訪問。いざ、北桔(はね)橋門から江戸城内へ。

ここは昭和43年から一般無料公開されている模様。皇居造営の一環として皇居東地区の旧江戸城本丸、二の丸、三の丸の一部を皇居付属公園として整備公開したとのこと。北桔橋の長さがあまりに短くて、ややビックリ!しかしながら門前の石垣は城造り名人の加藤清正が建築したそうで、いかにも堅牢そのもので急勾配の堂々とした威風はお見事です。

                                    石は瀬戸内海や伊豆から運んだそうで大きさが揃っているのが美しい
             江戸城への門が、こんなにも質素とは・・・橋の長さが短いのが判るでしょ?

2011年9月8日木曜日

森鴎外旧邸へ

上野の森鴎外の住まいは水月ホテル鴎外荘という温泉料理旅館の中にあります。島根県津和野生まれで東大医学部卒。ドイツ留学を得て軍医となり官僚でありながら小説家・劇作家などの多彩な才能を持つ。明治期、夏目漱石と並ぶ文豪のひとり。森鴎外はこの屋敷で有名な舞姫を書いたそうです。

門の中には大きな日本式家屋と庭園が。舞姫や高瀬舟や山椒大夫などなど、私が森鴎外の作品を読み胸躍らせたのは中学生時代のこと。図書館の日本文学全集を次から次へと借用して読破。小学校時代から小説の世界にはまっていた私は本を通して、未知の世界が大きく広がりました。

                         森鴎外邸の門。印象的な作品は山椒大夫。ストーリーは今もよく覚えている
            大きな岩盤の上に建つこの旧邸は関東大震災も先の3・11の地震も無事だったそう

2011年9月5日月曜日

東京タワーの下へ

芝公園や増上寺へ行くと、すぐ側に東京タワーが。いつもは遠くから眺めているだけですが今回はタワー真下で開催中の「江~姫達の戦国展」へ。ここは江戸時代、金地院という寺院があった場所。展示はドラマ出演者のサイン色紙や江戸城内の江の室内が再現されていましたが、内容が乏しくわざわざ見る価値もない。

東京タワーの細い先頭は3月11日の東日本大震災で上から1╱3がやや傾いたまま。よく見ると確かに小首を傾げたように少し曲がっています。昭和30年代を象徴する真っ赤な東京タワーを真下から見上げると、天空に向かって曲線を描く姿が実に美しい。我が家近くからも夜空に赤く輝く東京タワーが見えますが、近々、よく晴れた日に東京タワーに昇って、高層ビル群が立ち並ぶ平成23年の東京風景を眺めてみようと思います。

           台風12号の影響で生憎の空模様。この写真は東京タワーの看板をハイ、パチリ!
                 芝公園内から撮影した東京タワー。この角度では先端の曲がりは?



2011年9月4日日曜日

御成門と台徳院廟総門へ

芝公園をグルッと巡ると増上寺関連の各種の門がそびえ立っていました。今回の「江」を巡る日帰り旅で芝公園内を行ったり来たりした結果、いくつかの門の存在を知りました。増上寺の偉大な赤い山門。御成門は将軍が増上寺に参詣する時の専用門。台徳院(秀忠)惣門は堂々の赤門でその奥に長くて広い緑の空間が連なっていますが全て秀忠の霊廟だった場所とのこと。

JR浜松町駅から徒歩5分の場所に大門があり、ここから先が増上寺の20万坪の敷地。左右には多くの塔頭があったそうで門のみが残っています。東海道をゆったり歩く大名行列の向うに、増上寺の大門がありその向こうに山門が、その奥に本堂が描かれた浮世絵があります。増上寺が江戸期、いかに荘厳で徳川権勢の象徴であったかが、伺えます。

                                江戸城から一番近い増上寺北側、御成門は将軍参詣時の専用門
          2代将軍秀忠(台徳院)霊廟の惣門。重要文化財。戦災による焼失を逃れた数少ない門

徳川将軍家霊廟へ

増上寺には、2代将軍秀忠をはじめとする6人の将軍と正室5人・側室5人と多数の子女の霊廟が1箇所にまとめて埋葬されています。東京大空襲で惜しくも焼失したが、戦前、個別の霊廟群は国宝に指定され、それぞれ三重の総門を持ち荘重美麗な外観と神壇・壁画・天井画・欄間彫刻を施し、当時の最高の技術で優雅な装飾に包まれ、徳川家の確たる威厳が表現されていたようです。

秀忠の御霊屋のみ増上寺の南側に建てられていたが、宝塔は木造のため焼失。現在は増上寺の北側にあった御霊屋群の「江」の宝塔内に共に祀られています。他に6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の宝塔がありました。焼失した御霊屋群はしばらくの間、荒廃のまま放置されたが、昭和33年、詳細な学術調査の結果、南北に配置されていた墓所は、増上寺裏手の現在地にまとめて改装されたそうです。

                                銅製の徳川家墓所門。本来は6代将軍家宣の宝塔前の中門だったとか
           左端正面が秀忠と江を祀る宝塔。灯篭は仕えた大名達がこぞって献上した一部



増上寺へ

NHKの大河ドラマ「江~姫たちの戦国」の主人公「江」の墓所は増上寺内の徳川家霊廟にあります。今回は増上寺界隈の徳川家ゆかりの史蹟を訪ね、徳川将軍家の歴史をたどる日帰り旅に参加しました。増上寺は浄土宗の寺。家康によって徳川家の菩提寺に指定され、江戸期のその敷地は20万坪もあり僧侶が3000人もいたそうです。

江戸期、増上寺に6人の将軍の壮大な霊廟が個別に建築され、多数の塔頭を持った壮大な寺院でしたが、残念ながら昭和20年の東京大空襲で全て焼け崩れ、現在は大半が公園やホテルとなり、その境内は縮小されたそうです。浄土宗の開祖法然上人の800年大遠忌とドラマ「江」人気が相まって、訪問者は急増中の様子。

                               増上寺を訪問するのは確か3回目。3人の若い僧侶の読経の声が印象的
                   赤い山門に緑の松が美しい。観光バスで多数の大河ファンが参拝

 

ミニミニシアターへ

あーぁ、もう9月になりましたね。台風接近中の微妙な天候でしたが、同じマンションに住まいの闊達な方と渋谷のミニシアターへ行きました。席数は約15席?マンションの1室といった感じです。不揃いの椅子でしたが、どれも大きくて安定感があり座りやすい。「木漏れ日の家で」というポーランド映画を見ました。ワルシャワの森の中、古い木造の屋敷に愛犬と暮らす91歳の女性が主人公。

モノクロの色調がとても美しい映像に描かれ、孤独に生きる老婦人の姿。若き日の甘美な思い出、息子や孫との葛藤やお隣とのトラブル、そして忍び寄る人生の最後の時。名女優が演じる1人の老人の姿はマンション暮らしで子供はいない私とは何の接点もなく、1本の完成度の高い映画を見た、という思いです。古い木造の屋敷に木漏れ日が漏れ、一面のガラス窓が美しく輝いて・・・

       この映画で数々の受賞に輝いた91歳の名女優。愛犬とともに孤独に生きる美しい笑顔
           ワルシャワの森の中、古い一軒の大きな屋敷は老婦人が住むのに相応しい